フィンランド語学習法 その3

フィンランド語学習法 その3

Anki、Worddiveという2つのアプリを使いながら、ちょこちょこと勉強しては続かずお休みしてきたフィンランド語ですが、夏にフィンランドに行くチケットを予約し、この度また再開のやる気が出てまいりました。

最近思うのは、こうやって同じことに何度も挑戦しては続かずやめて、側から見たら挫折したかのような、三日坊主のようなことを様々並べている私ですが、やめてもまた始めれば失敗じゃないし、前にやったことも全て忘れているわけではないんですよね。ゼロリセットにはならない!やって行くうちにまた思い出すし、ずっと覚えていることも多い。

大学時代のインターンや新卒研修で少しずつ、基礎だけ学んだプログラミングも、この度仕事で必要になってまた勉強し始めましたが、ゼロリセットじゃないことを実感して嬉しくなったのでした。ほぼゼロから同時に始めた場合と比べて、何度目かの正直の今回は、随分とすんなり学習が進んでいます。

そういうことで、フィンランド語も何度も何度も勉強お休みしては、何度も何度もやる気を思い出し、やり直せばいいかなと思えるようになりました。

で、方法ですが。せっかく語学学習の補助も出るので、某大学の講座も考えましたが、週末出勤があることも考えると、毎週土曜日に通い続けるのは難しそう。ちょうど4月はじまり、7月終わりのコースがあるので、タイミング的にはばっちりなのですが、これ以上曜日と時間に縛られることを増やすのはストレスなので(週2の和裁と、月2くらいの自主企画の編み会で精一杯)、講座はやめておくことにしました。

その代わりに、今回もまたアプリを探しました。今回は無料でできることが多そうなアプリ!Memriseと言います。

日本語で学習するモードでも、英語で学習するモードでも、なぜかアプリからだとフィンランド語が出てこないのですが、googleなどで「Memrise フィンランド語」「Memrise Finnish」などと調べるといくつかコースが出てきます。リンクをクリックするとアプリでそのコースが開き、自分の学習するコース一覧に追加されます(追加したのはいいけど、どうやって消すのかわからない、ちょっとバッドUI)。

英語で学習するものだと、サバイバルフィンランド語や基本の3000語、あとはフィンランドの大学で使っていた「Suomen Mestari」というフィンランド語の教科書のコースもあります。どうやら、前に私がAnkiでやっていたように、自分で単語帳というかコースを作ることもできるみたい。iPadではそのメニューは出てこないので、PCからのみの機能なのかもしれません。

また、日本語で学習するものも、いくつかコースを発見しました。ただ、英語のほうがコースが豊富そうだし、日本語を経由するよりわかりやすい気がするので、わたしは英語のコースから取り組もうかと思っています。

まずは登録されている単語数の一番少ない、Survival Finnishから。これは流石に知っている言葉ばっかりです。テンポよく、少しずつ語彙を増やしていきたいと思います。

フィンランド語を勉強するモチベーションですが、やっぱり一番の目標は、フィンランドの家族・友達とフィン語で会話すること。今もなんとなく何の会話をしているのかはわかるレベルですが、自分からしゃべることはさっぱりできないし、リスニングでも知っている言葉がもっとあれば、もっと細かいところまでわかるはず。まずは語彙を増やしたい。そして少なくとも単語で会話に参加できるように、、!あまり文法とか難しいことはいわず(少しはやりたいと思うけど)、語彙力強化に努めたいと思います。

インタビューの呪い

インタビューの呪い

大学2年生ころからか「いつか幼稚園を作りたい」と言っていた。実際に幼稚園を経営している方と出会う機会もあって、アドバイスをもらったこともあった。その方には40超えてから初めてもいいんじゃない、というようなことを言われ、まあ確かに。とわたしのなかでは「いつか」「自分も子育てを経験してから」「おばさんになったら」という次元の夢になっていった。

それでも、「幼稚園を作りたい」に取って代わるキャッチーな夢が都合よく現れるわけでもなく、そして幼稚園の夢が消えたわけでもないので、事あるごとに幼稚園の話はしていた。

昨年、会社の社員紹介のようなWebページに記事を書いてもらった。はじめてちゃんとインタビューを受けて、自分の言葉が記事になった。社内の記事なので、公開前に自分で内容をチェックさせてもらって、意図した内容からズレる部分は修正させてもらった。タイトルは、幼稚園をつくりたいというところを切り取ったものになった。

ここまで校正もさせてもらって、自分もokを出した記事だけど、最近どうもその記事が、自分の発した言葉が古くなってしまったことが気になって仕方ない。今のわたしは、幼稚園よりも今取り組むべきことを見つけて日々進化しているというのに、昔一度口にして取り上げられた一文が、まったくその夢に向けてアクションを起こしていない自分への叱責に感じることさえある。後ろめたいんだ。もちろんインタビューを受けた時点での自分の考え、自分の言葉であることに間違いはないけれど、その記事のわたしだけが、ネット上でわたしの意見を述べている。現実のわたしは、まがいなりにも日々いろんなことを考え、アップデートされているというのに。

昔はこんなこと言ってたやつが、今こんなこと言ってるよ、矛盾してるんじゃない?という批判、Twitterなんかでよく見かけるが、人は変わる。気持ちも意見も変わる。記録が残るということは、その変わってしまったビフォーアフターを文字にして一語一句比べられるから、変わってしまったことが明らかになりやすい。そのことに少し息苦しさも感じる。そんなこと気にしてたら何も書けなくなる。しゃべれなくなる。

今回のわたしの古くなった言葉は、会社のメディアに載っている。今更修正したり、取り下げたりできない。まあ身内の管理するページなので、お願いしたら消してもらえるかもしれない。もしかしたら今のわたしのインタビューをまた取ってくれるかもしれない。けど、もしこれが自社のページではなかったら?なかなかそうはいかないだろう。他の膨大な情報に埋もれつつも、一生インターネット上に残る。

こんなこと、インタビュー受ける時点で想定しておきなさいよ、という感じだが、何せ初めてのことなので許してほしい。日々インタビューを受けて、いろんなメディアに自分の言葉(を聞き手が受け取って編集したもの)が残っている経営者や有名人というのは、大変なんだな。(もっとも、こういう方々は日々のインタビューにも慣れて、答えも固まってきているし、インタビューを受けることによって少しずつ内容もブラッシュアップされていくようだけれど。それにしても、いつかは古くなる)。

じゃあどうするか、ということで、それはもう常に「最新版」の自分の頭の中を、言葉にして、文字にして、世に発信するしかないんだと思う。わたしは自分のことを知ってもらいたい!という願望が強いくせに、日常的に話すことが苦手なので、文字にするのが良いのかもしれない。そして、そこまでの覚悟をせずとも、ちょっとでも言葉にしたいことは気軽にできるように、自分の管理する場所、どうしようもなく恥ずかしくなったら、考えが変わってしまったら、最悪記事を取り下げることのできるような場所に書くほうが良いだろう。(本当は、いつも仕事で子どもたちに教えているように、一度ネットの海に発信されたことは、消せなくなることも覚悟の上で書かなきゃいけないんだけど)

2017年、小さな営業チームのリーダーになり、所信表明はじめ、チームに自分の考えや大切にしていること、やっていきたいことなど伝える機会も増えた。けれどそういうおおげさな機会でなくても、普段考えたことなど、もっと人と共有していくべきなんだろうな、と実感した一年でもあった。2018年、考えを文字にして、公にすること、ちょっと頑張りたい。常に最新のわたしがそこにいるように。

自分の手でつくるものへのこだわりと、オリジナルであること

自分の手でつくるものへのこだわりと、オリジナルであること

はじまりのコップという本を読んだ。

ガラス作家の方の話の聞き書き。作家の考えていること、発した言葉、作家を取り巻く人たちや犬たちの話、そして時々出てくる著者の「私」が織り混ざって、不思議な構成。

物を作る人が、何を考えて作っているのか知るのは面白い。別に知らなくたって、できたものそのものが良いと思って買ってもらうのが良いのかもしれないけど、どういうことを考えて、どこで、どんな人に作られたのかを知るのも良いと思う。


わたしは作ったものにロゴのついたタグをつけたりしない。身につける時に邪魔になりそうだし、本当に気に入ってくれた人は、持ち主にどこで手に入れたのかとか聞いてくれるだろうし、買ってくれた人に紹介も委ねたい。今はそう思っている。

けど、ものをつくっているとき、何を考えてそれをつくったか、どこを旅しながらつくったか、ものとしてそこにできあがるまでの日々が見えたら面白いんじゃないかと思うことはある。特に編んでいるものは、各地を飛び回りながらつくっていることも多いし、そういう軌跡が見える、軌跡が見えるように手間をかけるというのは、作り手が見えるところで買う醍醐味でもある気がする。

そういうことをやっていきたいな。編みものって、どこでもできるのが良いんだよ!というメッセージにもなる。ちょっといろんな形を試してみようかな。


最近、オリジナルであることについて考える。本の中で左藤さんも、自分の試行錯誤、技術研鑽が、買ってくれる人にどこまで伝わってるかはわからない、自己満足なのかもしれないというようなことを言っていたが、それでもやっぱりこだわりは大事だと思う。

自分の中でのオリジナリティを守るルールみたいなのが、自然とできてきた。

色を混ぜただけの毛糸は誰にでも作れてしまう。染めるところからやりたい。

あたりまえだけど、どこかでパターンをみて編んだものはオリジナルではない。目数を変えたら良いとか、長さを変えたからよいとか、そういう話ではない。

あたりまえすぎて誇ることでもないから人にも言わないけれど、自分にしか紡げない糸を紡ぎたいと思うし、商品として売る編みものは、そのパターンからしてオリジナルでないといけないと思う。(こんなことを書いたのは、CDジャケットのイラストが巷で問題になっているイラストレーターの話を見かけてもやっとしたから。編みもの界隈でもあるよなあ、と思い。)

そうは言っても、大昔からこれだけたくさんの人がたくさんのものを編んできて、まだ誰もつくったことのないものなんてそうそうない。パターン集をひらけば、何百と模様のパターンもある。結局はそういうものの組み合わせに行き着いちゃうところもあるけれど。自分の中にストックがないと生み出せないしね。そういう意味では、オリジナルのものばかり編んでいてもいけないなと思うこともある。今年の冬は、キットを買ったり、編み図を参考に新しい技術を覚えたりして、勉強になったから、こういうことも必要だ。

、、と、最近考えていたことを文字にしてみた。定期的に棚卸をしよう。