Make the most of your Superpower for Good

Make the most of your Superpower for Good

仕事終わりに本屋で見つけて手に取った本、「情報生産者になる」(上野千鶴子著)。

論文の書き方、研究の進め方がまとめられていて、きちんと大学でそういうことを身につけてこなかったコンプレックスから読んでみた。まだ途中なのだけど、「わたしの問題をわたしが解く」というアイディアがとてもしっくりと来て、自分の中で「学問」というものの異物感が薄くなった。

わたしにとっての「ビジネス」は、研究者(の一部かもしれないが)にとっての「学問」で、わたしにとっての自分が取り組む「事業領域」は、研究者の「研究テーマ」である。なんだそんな当たり前のことを、、と皆さんお思いかもしれないが、わたしにとっては大きな発見だったので、いてもたってもいられなく、まずは手書きメモにて。

ちなみに、わたしにとってのビジネスは、我が妹にとってのデザインだったのだ、ということには2年前、妹の卒展を観に行って気づいていた。ビジネスとアート、デザインって、近いものなんだなあ、、というのがその時の発見だったわけだが、今夜はそれがまたちっぽけになるほどの、ひらめきが走った夜だった。

わたしは課題解決の方法、手段に興味がある。その手段として、自分があたりまえだと思っていたのはビジネス、商いだった。けれど、そうじゃない人もいる。それぞれが生まれ持ったものや育った環境なのか、それぞれ持っているSuperpowerを使って、社会を良くしようと生きている人がたくさんいるんだ、ということに気づいて、嬉しくなった。

同時に、疑問もむくむく。みんな、それぞれ、なぜその手段が当たり前もしくは最善だと思っているのか?どの手段も、どんな課題の解決にも繋げられるものなのか?課題と手段の組み合わせに相性があるとするならば、何がそれを決めるのか?一つの課題に対して、あらゆるアプローチをしていくと打ち出し、行動している組織はあるか?例えばわたしが、今いる場所で、先陣切ってそのような動きを起こすことはできるのか?

今はビジネスを課題解決の手段として使えるようにとIT企業で働き特訓しているわけだけど、手段がいろいろあると気づいたからには、課題解決のための学問にも興味が湧いてくるし、問題提起のためのアートにも興味が湧く。昔から、うまく行っているムーブメントの事例を読んだり、自分もそんなことができるようになりたいと思ってきた自分の関心ごとがまた一つ見つかってしまった。

[11/14追記]

ちなみに、この記事のタイトル「Make the most of your Superpower for Good」は、それぞれの特技を活かして社会の役に立てることが一番だなと思って思いついたフレーズ。「for Good」という言葉は、「良いことのために」というイメージで使っていたが、調べてみると「永遠に」という意味で使われることが多いらしい。最近では「Tech for Good」とかのように、良いことのためにという意味もあるみたいだが、もともとはpermanentlyの意味。

自分の得意を活かして一生を過ごす。自分の得意を良いことのために活かす。図らずも、両方の意味を込められたんじゃないかと思って気に入っている。

ゆるやかな起業

ゆるやかな起業

会社の元先輩のnoteを読んで。

公務員をやりながら「#起業しろ」と思う、たった一つの理由

なにかを始める時、「背水の陣で」とか「退路を絶って」とか言うとかっこいいし本気度が高いような印象を受けるけれど、それは必須ではないよなあとつくづく思う。新しい挑戦が軌道に乗るまで、安定した選択肢を持ち続けたっていいと思う。ゆるやかな起業、とでも言おうか。

副業解禁とか2枚目の名刺とか、もともと欲張りでどっちもやりたいわたしにはとてもありがたい時代の流れである。前出のnoteによると、昔から二足のわらじをはきながら制作活動をしていた偉人もいっぱいいるみたい。知らなかったなあ。よく昔の人が複数の肩書で呼ばれているのを、いいなあと思って見ていたけれど、最近もまたそれがあたりまえになりつつある流れを感じていて、うれしい。

かくいうわたしも、IT企業勤めをしながら手創り市への出展などしている一人。会社でもこのことは公言している。理解のある会社で、恵まれている環境だなあと思う。最近、サラリーマンとしての仕事と、itoshigotoと、接点も生まれてきていて、ますますうれしい。

わたしもいずれはitoshigotoばっかりやって生活できたら、という夢はあるけれど、サラリーマンとしての仕事も好きだし、まだバランスをとりつつ大事に育てて挑戦していく時期かなと思うので、しばらくこの形でいくつもり。その辺りは、ゆるやかに。数年以内に地元仙台に活動拠点を持ちたいので、そちらの方向にアンテナは張りつつ。

生き方、働き方、キャリアという観点でわたしが理想としているのは、フィンランドで出会った3足のわらじを履く女性です。

価値観をひもとく:自分が、今、ここで、やる意味

価値観をひもとく:自分が、今、ここで、やる意味

とりあえず3年、働いた」の記事にも書いたように、わたしは「自分にしかできないことをやる」「自分がやる意味を考える」という考えを大事にしている。

放っておいても誰かがやる、なんとかなることは誰かに任せておけばいい。自分の時間、労力は有限であり、本当に自分が役に立てることに使うべき。

こういう考えを、わたしは就職活動でも大事にしていたな、と思う。同業他社が沢山あったり、働き手からも人気の大企業だったり、そういうところははじめから選択肢にあがってこなかった。よく面接で、「例えばお茶を作ることはわたしのやりたいことではない。わたしがやらなくても数多ある、巨大な飲料メーカーが作ってくれるから」と言ったりしていた。

(※別にお茶じゃなくても良かったんですけど。お茶作ってる人を卑下しているわけではないです。お茶は毎日飲んでいるし、誰かが作ってくれているから飲めるんだけど、わたしがやらなくても、という考えの一つの例です。そして面接の際、そこにお茶があるから説明しやすかったから。お茶作ってくれている人、ありがとうございます。例として出したことゆるして!)

この関係のない写真は箸休め。松島の遊覧船。

こういう考えを持つようになったのは、大学生の時に遡る。わたしは被災地の大学生として、アメリカで半年間インターンをしながら東日本大震災とその復興、東北の今について伝える機会を得た。半年間ものあいだ、国のお金、つまり国民の税金のサポートを受けて、アメリカで暮らしていた。そのプロジェクトは(特に短期のプロジェクトは)税金の無駄遣いだと叩かれることもあった。一緒にアメリカで活動していた大学生たちは、本当に優秀で志のある、すばらしい若者たちだったけれど、実際、日本ではこのプロジェクトを叩く人たちもいて、テレビ番組まで作られたことも知った。インターンのあと、寮でほかのメンバーと集まってプレゼンの準備をする夜、その番組をみんなで観て、悲しい気持ちと、偏った番組構成への憤りももちろんあったが、「国の代表として送り出してもらっていることの責任」をみんなで改めて実感したものだった。

それからというもの、個人的にも「なんでわざわざわたしたち大学生を今アメリカへ送り出してくれたのか」「なぜわたしたちなのか」「何を期待されているのか、託されているのか」そういうことをよく考えた。その頃の自分には、世の中の役に立つスキル何もなかった。けれど、大学生なので時間はあったし、英語がしゃべれた。そして、何より、これから日本に帰って、復興の過程で生きていく、未来をつくるのはわたしたちなんだ、ということに気づいた。本当にきれいごとばっかりほざきやがって、と思われるかもしれないが、馬鹿正直にそういうことを思った。

アメリカで学んだことは、そのあとの5年間で既に役立っていることも沢山ある。そして何より、「自分が今ここでこれをやる意味」を意識して生きるようになったことは、自分の人生においてとっても大事なターニングポイントだ。

ほかの誰でもない自分に、ほかのいつでもなく今、ほかのどこでもなくこの場所でできることを考えること。それはどんな組織にいても、どんなプロジェクトをやっていても、もしくは、何をやるべきか岐路に立たされた時も、価値を発揮するため、役に立つために重要な考え方だと思う。

そして今、個人として大事にしてきたこの考えを、自分が進めるビジネスや、いっしょに働くチーム、事業にも適用できるんじゃないかと考えている。ブルー・オーシャン戦略とか、似たような考えを理論づけたものも既に世の中にはあるんだろうけれど、自分の経験から生まれ出た一つの発見として、大事に育てて生きたい。

高校生のときに買って、今もときめく古着のスカート。

こういう、自分が大事にしていること、考え、判断の軸になるようなことを、「律」と言ったりするらしい。今売り出し中の「働き方の哲学」という本にあった。

「自律」とは、みずからを方向づけること。そのために、「律」となる理念、信条、価値観を醸成し、それをもとにぶれない判断をする。

そういえば、出身高校の校訓が、「自主自律」だった。高校生の時には、自分で自分を律するのね〜はいはい、そうね〜くらいにしか考えていなかったこの言葉、今になって響く。

チームをまとめる立場になった今、「律」として大事にすることをチームで共有したり、リーダーとしての意志決定をもって示していきたい。「わたしたちだからできること」「わたしたちがやるべきこと」「わたしたちがやらないで、誰がやる」。